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    • 第1編 甑山上帝様の降誕
    • 第2編 開闢と神道
    • 第3編 道門と聖徒
    • 第4編 神道と造化政府
    • 第5編 天地公事
    • 第6編 道統と首婦
    • 第7編 後天開闢と仙境
    • 第8編 大頭目と働き手
    • 第9編 福禄と寿命
    • 第10編 御天
    • 第11編 太母高首婦様

 

甑山上帝様と太母高首婦様

 

甑山上帝様

 

宇宙を主宰なさる上帝様

自然界は、無秩序な渾沌の世界ではなく、組織的に変化していく秩序整然とした世界であります。東洋では宇宙の体系的な秩序を「理」と言いました。そして、「理」を調和的に主宰・統治なさる至尊の人格的な神様がおられます。その方を、東方の文化圏では昔から天上にいます「上帝様」と呼んできました。「上」は‘最高の存在’を、「帝」は‘人格的な統治者’を意味します。つまり、「上帝様」は‘天上におられる宇宙の主宰者・統治者の神様’であります。

この方を、キリスト教では「天の白い御座にいます主」と言い、仏教では「兜率天に住する弥勒仏」と言い、道教と儒教では「天上の宝座にいます玉皇上帝」、または「上帝様」と呼んで来ました。

上帝様は何故、人間の身をもって来られたのか

今から134年前、上帝様は人間の身をもってこの世に降りて来られました。その理由の一つは、上帝様は「孔子・釈迦・イエスは、私が用いるために遣わしたのである」(『道典』2:43:5)と言われたことにあります。彼らの教えの総結論は何でしょうか?イエスは一生を通じて、自分は天の白い御座におられる父に遣わされた者であると主張し、釈迦は兜率天の主である弥勒が地上に下って人類を救済する、と言いました。また『易経』では、東北の艮方で、宇宙の理法が成就されると伝えています。

もう一つは、天と地、人間と神明が救われようがないほど病んでいるからであり、もはや全人類が大艱難の秋開闢期に直面する時点に至ったからであります。そのために原始の神聖と仏陀と菩薩たちが上帝様の下に駆け寄って、病んだ宇宙文明の秩序を正し、死境に瀕した人類と神明を救って下さるよう懇請した(『道典』2:43:5)ところ、これに応えて上帝様が自ら人間の世に降臨なさったわけです。

 

上帝様は何故、東方の朝鮮に降臨なさったのか

上帝様は、天の朝廷にいる神明たちに全ての政事をしばらく任せられ、何処の地に降臨されるべきかを決定するため直接天地を見回られました。この時上帝様をお供して西洋大法国の天蓋塔に降りて三界(天・地・人)を見回り、上帝様が人間界に降世なさるよう道を切り開いた人が、まさにマテオリッチ神父(Matteo Ricci、1552~1610)です。上帝様は、マテオリッチ神父こそ、先天の世で人類に最も大きい功徳を及ぼした人物であるとおっしゃいました。マテオリッチ神父は、東洋に来て地上天国を建設しようと色々な工夫をこらし、死後は天上界から天国の文明を学んで、西洋近代文明の発展に主導的な役割をした人です。

上帝様の意中は東方の朝鮮(韓国)に赴かれました。東方の朝鮮は久しい昔から、神教(神の教え)を信仰し、神教文化の脈を受け継いできました。つまり、韓民族は、上帝様と天地諸神に仕え、祖先を敬う祭祀文化の伝統を守り続けて来た東方文化の宗主なのです。しかし、韓民族は数世紀にわたって桎梏の歴史を経て来ており、19世紀末に至っては更に激しくなりました。朝鮮末の朝廷の腐敗と抑圧は、貧困で飢えた民衆を甲午(1894)年の東学農民抗争に追いやり、そのため多くの人命が犠牲になりました。これはまた、朝鮮を支配しようとした東西帝国主義勢力の侵略と干渉を加速化させ、ついに日清戦争を引き起こす契機となりました。このような絶望のどん底に陥った朝鮮の民たちは一途に、神人が降世して新しい世の中を開いてくれることを切に念願しました。

このような韓民族の念願に応じて、上帝様は朝鮮を新しい天と地を開く神事を行う最適の場に定められたのです。宇宙の統治者の神であられる上帝様を迎え入れられるところは、東方の韓半島しかありません。何故かと言えば、韓半島は地理的に地球の生命力が集まっている穴処(急所)であり、

地球の五大洋と六大州が韓半島をつつみ囲んでいる地勢をなしているからです。それだけではなく、東方の朝鮮は、かつて真表律師(734~?)が弥勒の大道を広めようとの大志を抱いて、救いの仏であられる弥勒が降世なさることを至極の心で祈願したことから、金山寺の弥勒殿を中心に兜率天の天主信仰が広まって根付くようになった所でもあります。

上帝様は、「お前らの国に縁りがある」(『道典』2:73:6)、「世界万国を生かす活法南朝鮮にあり」(『道典』5:243:21)と言われました。また、『道典』の1編5~10章で明かされたように、これまでの古い経典や聖賢たちは、世の中を救済する真人は東方の地から出現することを伝えています。

 

地上に降世なさった上帝様

上帝様は辛未年(1871)に東方朝鮮の全羅道古阜で、人類最初の姓と言われる姜の姓をもってご生誕なさいました。人間としてお生まれになった上帝様のお名前は一淳であります。後日、完成・成熟を意味する「甑山」という尊号をお使いになります。斯くして、人間として来られたこの方を甑山道では「甑山上帝様」と呼びとなえます。

 

聡明であられる幼い上帝様

幼い頃の上帝様は聡明かつ非凡で、古今独歩の叡智を備えておられた子供でした。六歳(1876年)の時に、ある村で催された民俗音楽と踊り(風物)をご覧になるや、ふと、天地調和の音、即ち天地の生命と秩序の根源である律呂の声を聴きました。

七歳(1877年)の時には、天と地の道理を悟りました。上帝様の父親が幼い息子を教育するために教師を招いたことがあります。しかし、教師が子供の上帝様に『千字文』を読ませたところ、上帝様は本を開いて最初の一句にある「天」の字と「地」の字を家中が轟くばかりに大声で読み上げられては、本を閉じて何も言わずに出て行かれました。そこで、教師がその理由を聞くと、幼い上帝様は「天の字で天の道理を知り、地の字で地の道理を知ってしまったので、もはや学ぶことはありません」(『道典』2:43:5)と答えられました。

またある時は、「遠くに跳ぼうとしても、地が落ち込みやしないか心配で、大きな声を出そうとしても、天が驚きやしないか心配だな」(『道典』1:15:9)といった詩文を作って、周囲の人を驚かせたこともありました。

このように幼少期の上帝様が優れた才知や、天地を揺るがす気概と霊性を見せられたところ、後日、これが噂になって朝鮮全域に広がり、一目会いたがる人々が跡を絶ちませんでした。また、上帝様が14歳の時(1884年)でした。早くから求道に志を寄せていた金亨烈(1862~1932)は、風の便りに幼い上帝様の神異であることをよく知っていました。

そこで、ある日、彼が「一度その人に会ってみよう」と決心し、古阜に向かう途中に日が暮れると、ミミズクの鳴き声に引かれて行ったところ、仏出庵という寺に辿り着きました。その寺の庭で、亨烈は図らずも幼い上帝様に出逢いました。そして、その場で空中に浮かび上がる光景を目の当たりにし、上帝様が現人神であられることを確信するようになります。(『道典』1:17:1~8)その後、金亨烈は上帝様の首席聖徒になります。

 

上帝様の至難の生

甑山上帝様の若き時代は極貧と波乱に満ちた日々でした。10歳(1880年)頃には作男や木こり生活をなさったこともあります。宇宙の主宰者なる上帝様が様々な辛苦を嘗められた理由は、人間世界のあらゆる苦痛と哀歓を自ら体験して、苦痛と不幸に処した民を救うべき秘策を講じることにあったのです。

24歳(1894年)になる頃、上帝様は東北アジアにおいて日清戦争の火ぶたになった東学の農民抗戦を直に目撃し、民衆の悲惨な生活を体験なさいました。甑山上帝様は全Z準将軍が率いる東学軍の戦場を見回られながら、人々に「この戦争は破れる」と言って従軍を引き止められました。また、後日、20世紀大戦争の根源的な事件となった日清戦争の現場と、渾沌たる世界情勢などを目撃なさって、悲嘆と葛藤に陥られました。この年に、甑山上帝様は天下が日増しに悪化することを懸念なさり、天下万民を自ら救おうとの「匡救天下」の大志を抱かれました。

 

天下遊歴の旅に立たれる

甑山上帝様は約2年間(25~26歳)、匡救天下を成し遂げるために思案を巡らされ、洋の東西の智恵が込められている多くの古典を耽読されました。これは、「天下を救うのに役立つであろう」(『道典』1:29:1)からです。

以後、27歳(1897年)になられて、3年間(1897~1900)天下遊歴の旅に出られます。故郷を離れ太田に赴かれる途中に鶏龍山に立ち寄られ、後天の秋開闢の易数体系を明かすよう遣わされた『正易』の創始者の金一夫(1826~1898年)に会われて、後天開闢の天地大勢についてお言葉を交わされました。それから、将来、人類文化の中心地で地球村の首都となる太田に向かわれます。

 

天下を救うための無上の大道通

3年間の遊歴を終えて故郷に戻られた上帝様は、31歳(1901年)になった時、人類と諸々の生命を苦境から救い上げようとの一念を成就するための一環として、「一切のことが私から再び新たになる」(『道典』1:32:3)、「もはや、天下の大勢はこれまで知って行った法術では世の中を救うことができない」(『道典』2:1:2)、「圏外の人知らぬ法で事を謀るのが完全である」(『道典』4:9:4)宣言されます。そして、甑(シル)山で14日間の修道を終えた後、更に母の山と呼ばれる全羅道所在の大願寺七星閣に立てこもって、21日間深奥極まりない修行を行われました。

当時の大願寺の住職朴錦谷(1854~1946年)は「天神が降臨なさった」(『道典』2:3:4)と思い、真心を尽して甑山上帝様に仕えました。彼の証言によれば、上帝様は部屋の中で、「紙に何かを書いては燃やし、書いては燃やしておられた」、「身の丈の五倍も超える柿ノ木を高く飛び越えたりもなさった」(『道典』2:5:2-5)と言い、また「最後の七日間は飲食を廃し、一心不乱に修行に打ち込まれた」(『道典』2:10:1)と伝えました。

ようやく21日目になる1901年7月7日、甑山上帝様が錦谷に「『山向こうの金山寺に行って、弥勒殿を守りなさい』と命じられたので、錦谷が大願寺を発つ際に見ると、燦爛たる火柱が天から七星閣の屋根に伸びており、また、弥勒殿を見張っていると、にわかに天地が振動し、弥勒仏と弥勒殿が崩れんばかりに大きく揺れた」(『道典』2:10:5-7)と言います。この時がまさに、甑山上帝様が天地の道通門を開け放された時刻でありました。

甑山上帝様が天地の道通門をお開きになり、無上の大道通を遂げられたのは、今までの聖者たちが身を削る修行と祈祷のなかで得たような道通ではなく、人間の歴史的現実の中に宇宙の神道を総体的に開いておかれて、人間と神とが真の一体になれるよう疎通の道を開かれたことを意味します。そうして、人間の身をもってこの地に降臨なさる以前に天上界で行使なさった絶対的な造化権能と統治権を、再び行じ始められたのです。

 

造化権能を行使なさる

甑山上帝様は31歳になる1901年から、無所不能の造化権能を直接、行使されます。暴雨の中を歩き回られても全く濡れず、風雨と雪、霜、雲と雷を意のままに用いられました。多くの聖徒たちと民衆の目の前で、昇る陽を止まらせる権能を幾度も見せて下さいました。この時、上帝様は「日と月も私の命に従って運行するのだ」、「私は天地日月である」(『道典』4:60:11,14)と言われました。

上帝様は枚挙に遑がないほど数多くの奇行奇跡を行われました。深山に入って山中に住する自然神を呼び出して命令を下されもし(『道典』4:71:11)、道を行かれる時、治道神将に勅令を下されもしました。(『道典』2:61:4)更に、幼いホヨン(金貞叔、1897~1992年)を抱いて深海の底にある竜宮に行かれ、秋開闢の公事を執行されたこともあり、(『道典』5:47:4-7)難病で苦しむ病人を指先一つ、あるいはお言葉一つで癒し、死んだ人を蘇らせたことも度々ありました。ある日は、幼い息子の肝が不治の病に冒されて死に瀕していると、絶望に陥って悲しく泣いている婦人に遭遇しました。その時、上帝様は聖徒をして、「あの婦人に、家の裏山に小さな庵があるかと聞いてみろ」と聞かせた後、「毎朝早く寺に行って、寺の鐘を一日三度ずつ三日間打てば治ると伝えろ」(『道典』2:112:8-9)と言わせられ、死にかかった幼い生命を生き返らせて下さいました。

このように甑山上帝様が造化権でもって、行かれる先々で、当時の無知で悩み苦しむ民衆の苦痛を解決して下さったところ、彼らは口を揃えて「神様が降世したのではなかったら、どうしてこのようなことがあり得ようか。天の神様が降臨なさったのだ」と、その徳を称えました。

 

4大宗長を交替なさる

甑山上帝様は宇宙の主宰者としての権能をもって、各宗教文化の精髄を抜き集めて統一なさるために、それぞれの文化圏から最も功徳の多い歴史的な人物を選んで、宗長を交替なさいました。仙道の宗長には、上帝様が直接道通を授けられた崔水雲大神師を、仏道の宗長には釈迦よりも大きな道通を遂げた震黙大師を、儒道の宗長には、第二の孔子として推尊される朱晦庵を、西道の宗長には、天と地を駆け巡って地上に天国を建設しようと尽力したマテオ・リッチ大聖師を立たせられました。このようなことは、宇宙の主宰者であられる上帝様の造化権能でのみ可能なものです。それで上帝様に仕えた多くの聖徒たちと、上帝様の奇行奇跡を目撃した人たちは上帝様を天主、弥勒仏、玉皇上帝であると認識していました。

 

9年間の天地公事

甑山上帝様は「一切のことが私から再び新たになる」(『道典』1:32:3)という前代未聞の宣言をなされ、9年(1901~1909年)にわたり、破天荒の「天地公事」を執行されました。これは、これまでの怨恨で点綴された相克秩序の時代を閉じ、新たな世界・新たな文明のなかで、調和のとれた相生秩序を開くようになる宇宙史のプログラムです。また、後天の造化仙境世界を開くことを意味するものでした。甑山上帝様はこうして、古今未曾有の神事である「天地公事」の端緒をお開きになりました。

 

甑山上帝様は、先天開闢以来、相克の運に閉ざされて生きて来たあらゆる生命の怨と恨を解き晴らして下さり、後天五万年の地上仙境の世界を建て、全人類を生命の道にお導きになられた。これが即ち、人尊上帝様として九年間、東方の朝鮮の地で執行された天地公事である。これをもって天と地の秩序を正し、天地における神道と人事を調和させ、原始返本・解冤・相生・報恩の精神で、過ぎ去った先天相克の運を締めくくり、後天の新しい天地の相生の運数をお開きになられた。  

-『道典』5:1:1~6-

 

私のなす事は天地を開闢することで、即ち天地公事である。

         -『道典』5:3:2-

 

「天地公事」は、天地の神明たちと共に、宇宙の秩序と人間の歴史を立て直すことです。その窮極の目的は、来るべき患乱の秋開闢期に人類を新しい生命の道へ導き、後天の造化仙境世界で平和に暮らすようにすることで、これには、人類が大開闢の激変を乗り越えて、後天の統一時代へと進められる途があります。甑山上帝様は、地上での事を全て終えられて、1909年6月24日、天上の玉座へお戻りになりました。

 

 

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